株式会社マースエンジニアリング
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マースとは? >> マース・ヒストリー

マース・ヒストリー

 

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MARS HISTORY 1「マースという名のもとに」

夢中でした・・・何もかも。

昭和49年9月、新宿1丁目の小さな雑居ビルの12坪のオフィス。4人の男たちが、「自分たちの培ったコンピュータ技術の経験とノウハウを試してみたい」という気持ちだけを胸に会社を設立しました。
名前は「マース」。ギリシャ・ローマ神話の火星=戦闘の神であり、この牡羊座の守護神が授ける戦闘力を願って命名しました。これに技術力の高さを志して「エンジニアリング」を付け、「株式会社マースエンジニアリング」は始動したのです。
しかし世間の風当たりは強く、当初は苦労の連続でした。受注が途絶えて資金繰りに困り、金になる仕事探しに奔走することもありました。それでも必死の努力でカシオ計算機からのアプリケーションなどのソフト開発を受託する業務を契機に、システム機器販売代理店となって設立者の1人が技術者から本格的に営業マンとして転向し、受注拡大に努めます。しかし、みかん類選果評価装置の開発を受注した際には部材や設備費用に見積もり違いが生じて危うく損失を出しそうになり、必死で受注金額の変更を懇願するということも経験しました。
そんな中、東京都田無市(現在の西東京市)の中央図書館の開館に合わせて図書の貸し出し・返却システムを提案することになったのです。技術志向の強い4人組が、当時最先端のマイコン技術を駆使できるシステムを受注したことは会社存続の大きな転機となり、4ヶ月余りの短い開発期間に昼夜を問わず取り組み、なんとか開館に間に合わせることができました。こうした開発への心意気が今のマースに生きています。


マース・ヒストリー

MARS HISTORY 2「パソコン時代の幕明けとともに」

夢の自社製品「MEブランド」デビュー!

設立3年目に本社を移転した頃、マースは製品開発受託及びソフト開発受託の両分野が軌道に乗り出してきました。ソフト開発受託はOSやCOBOLの開発が順調な中、当時手軽な記録媒体としてのフロッピーディスクにいち早く着目し、各社のコンピュータシステムに接続可能なサブシステムを開発し拡販を進めました。
製品開発受託部門では他社に先駆けてMC6809SBC(シングルボードコンピュータ)の開発に着手しました。これ以降に開発受託した製品のメイン基盤として組み込むことで、ユーザーの高機能仕様の要望に対応するというシリーズ化に成功し、売上は1億円を超えビジネスは多忙を極めていきます。しかし経常利益は6桁台と小企業の苦闘が続く毎日でした。
このような環境にもめげずマースの開発への猛進は続きます。SBCをメイン基盤とした高性能な製品開発が評価され次々と自社製品の納品につながっていきました。この中には、環境問題への関心の高まりを背景にNOx、SOx、Ox濃度及び騒音計のアナログデータを電光掲示板に数値表示する「環境モニタリング装置」の開発もありました。
こうした取り組みの中、昭和54年5月に開催された「第54回ビジネスショー」で、MC6809SBCやプログラム開発支援システム、ローコスト版OCRリーダーなどを展示し、とうとう「MEブランド」のオリジナル性を大いにアピールすることとなったのです。これに続き電子専門誌に「MEブランド」の広告を出したこともあって引き合いが急増し、売上高は3億円を突破。経常利益も1,000万円を超える大躍進を果たすことができました。


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MARS HISTORY 3「運命の出会いは偶然に」

「パチンコ景品管理」のマース、ついに誕生!

自社製品開発に自信を深めたマースは、昭和55年の5月に1軒の設計事務所へオフコン販売の飛び込み営業を行います。ここで、「オフコンは買えないが、こんな機械をつくれるか?」と紹介されたのが、パチンコ店の景品管理システムでした。  当時、ホールの遊技客はパチンコ玉をわざわざ景品カウンターまで持っていき、玉計数機で確認して景品に換えていました。そこでマースでは、まずパチンコ島の端に「景品管理システム」を設置することを提案し、このシステムに遊技客が取得した玉を入れると玉数が紙テープで出力されるよう、当社のPOSシステムを活かして処理できるようにしました。この景品管理システムは名付けて「大入」。玉数が表示されるスタイルも、当時としては画期的なものでした。
評判は高かったものの、なかなか導入が進まない中、当社はその後も改良を続け、ようやくPOSに対して業界で認知されるようになったのは、業界誌各社に取り上げ られてから3年後のことでした。ホールの新規開店に併せて続々と商談が舞い込み、新入社員も5名採用して、この頃からオフコン販売と景品管理システムの売上構成比が逆転するようになりました。 ところが、パチンコ業界へ舵をきったマースに吹く風は、順風満帆とはいきません。技術者が引き抜かれ、同業他社が同様の製品を開発して売り出したのです。当社の製品は特許性が十分あったのですが、当社が申請した特許は、今はなき同業他社からの阻害を受けて特許庁から認められず、苦い経験をしました。
また、パチンコ店相手の仕事を嫌がる社員も少なくなく、社員の一部が退社してしまう事態もありました。さらに、大阪のあるホールへ導入しようとした際、当社の開発したシステムから出力される紙テープは風俗営業法第23条の金券に該当するため警察が導入の許可をしないという問題が起きました。タイトな資金繰りの中、大阪府警本部に直談判するなど必死の思いで説得し、ようやく許可を取り付けました。
夢中で飛び込んだニッチなパチンコ業界への技術革新は、こうした数々の努力を経て、今日のマースエンジニアリングを支えています。


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MARS HISTORY 4「パチンコ専業へ舵を取れ」

「技術力」のマース、受託業務に有終の美を飾る。

会社を立ち上げてから10年を迎えようとしている頃、パチンコ関連業務への受注が急増してはいましたが、創業からの製品開発受託業務も技術者魂とともに健在でした。
1983(昭和58)年には銀行向けへカード振込機を開発しました。当時の銀行振込はすべて行員が取り扱っており、自動振込機への開発が嘱望されていました。キャッシュカードを読み取り、振込先をメニューに従って入力し、預金口座から引き落とすという現在のATMによる振込機能と全く同様の当社の振込機は、時代を先取りしていると高い評価を受けました。
また、新宿に本社を置くアミューズメント関連企業へ複数の業種のオンラインシステムとして、MC800コンセントレートコンピュータを納入しました。これは後にパチンコホールの各店舗のデータ集信を目的とした全自動集信装置「MSー9」の開発につながる画期的なシステムでした。
その2年後に受託した磁気ディスク製造装置の主要制御部をマイコンで制御するディスク製造ロボットは、日経産業新聞主催の産業機械賞に輝くなど、技術力はますます進化を遂げていきます。
しかし、こうした量産できない製品開発は、単なる技術の切り売りであり、下請の域を出ない仕事に見切りをつける必要がありました。
 同年、東京ニュース通信社向けに新型受信端末「ラジ・テレシステム」を納入するのが、受託業務最後の仕事となりました。この装置は複数の新聞社にも採用される運びとなりました。
この間、パチンコ関連では後にベストセラーとなる景品交換システムPOS4号機の「PCー80」や、玉箱を置くだけで「玉箱の底が抜ける」という画期的なアイディア製品の玉計数機「Cー10」など次々とオリジナル製品を開発していきます。
こうした動きによって、既存と同様な製品を販売したくないというマース独自の製品開発へのこだわりが評価されるとともに、受託業務の幕を下ろし、すべての リソースをパチンコ業界へと投入していくことになったのです。


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MARS HISTORY 5「新風を業界に次々と」

パチンコ業界に革新をもたらす技術で大躍進

マースがパチンコ業界へすべての経営資源を投入するきっかけとなった要因の1つは、1986年に磁気カードによるプリペイドカードが導入されたことでした。
業界の動向を睨んで密かに開発を進めていた矢先、日本信号(株)のVISMACカードに出会いました。実用化にこぎつけるため業務提携を行って台間玉貸機向けに「リーダライター」のユニット開発を進めます。これにより、従来の紙テープリーダーに代わって、遊技客が取得した玉数を表示できる業界唯一の磁気カード「見えるカード」をメディアとするカード式景品管理POS「CXー80CR」を誕生させました。
この「見えるカード」による磁気カードが急速に業界に普及していき、全国のホールに導入が進んでいきます。ところが警察庁保安課から「玉数を表示したカードは誰が許可したのか?」と詰問され、警視庁へ出向く事態に発展しました。折りしも業界では、警察庁が全国プリペイドカード構想を発表し大騒ぎになっていた時期でした。
マースでは、専門官へ玉数表示カードは有価証券にあたらないことを説明して誓約書を提出する一方、ノズル付の新型台間玉貸機(サンド)を開発して遊技台ごとに設置することを警察庁の専門官から販売承認を取り付けました。この結果、遊技客にとっては1台ごとにサンドが設置されて利便性が上がるうえ、ホールにとっても売上増が見込めるということで、業界のお墨付きをいただいた玉貸機は業界標準仕様となりました。
将来への大きな発展に向け、マースは1988年に本社を移転し、そして新たな製品生産拠点の取得を目指すことになります。また、従業員の意思疎通を大事にするため、翌年1月には社内報「らっしゅ」を創刊しました。


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MARS HISTORY 6「売上増加で規模拡大」

新工場稼動に続き、マース、全国展開へ!

昭和から平成へと時代が変わった平成元年、マースエンジニアリングは創業15周年を迎えました。この年には、静岡県御殿場市の東富士にある工場を米国の企業から取得し、念願の自社工場稼動にこぎつけました。この生産工場の順調な稼動により、本当の意味でのメーカーらしさをアピールできる喜びを味わえるようになったのです。
こうした中、平成3年には「チャレンジ100」スローガンを立てて年商100億円を達成する気勢をあげ、社員一丸となって目標に取り組みました。
まず製品面では、景品自動払出機「CXー90」を開発・販売しました。この払出機の登場により、景品交換の完全無人化が可能となり、後に開発する卓上型とともに多くの店舗に導入されていきます。このため、工場をフル稼動しても生産が注文に追いつかない日が続き、東富士に第二工場を急遽建設することになりました。また、MーNETシステムを展示会で発表した際、遊技客に会員カードを発行して端玉を貯め込む貯玉システムが話題を呼び、後に貯玉第三者管理事業に参入するチャンスを得ることにつながっていきます。更にソフトの開発力とメンテナンスを組み合わせた顧客サポート体制も構築していきました。
製品やシステムを導入する店舗が増えるに伴い、マースは支店・営業所を次々と開設していき、北海道から沖縄まで拠点を設けて全国的な販売網を築き上げました。
このようにしっかりとした組織・体制作りを固める一方で、2つの工場の稼動などで資金繰りに苦労していました。そこで資金調達の解決策の1つとしてだけでなく、社会的地位の向上も目指して、マースが本格的に株式の店頭公開準備を始めたのもこの頃でした。


マース・ヒストリー

MARS HISTORY 7

店頭公開、創業20周年、そして売上高100億円突破!

バブルの崩壊により景気が急速に悪化した中、遊技業界は引き続き好調を博しており、プリペイドカード(PC)対応のパチンコカードリーダー(CR)台が登場していました。マースでは平成4年に会員カードシステム対応のEXシリーズを開発して、全国縦断展示会「ハイパーネットフェア」を開催し、好評を得ました。
 これに手ごたえを感じ、同年にLAN接続して景品会員情報を一元管理化したハイパーコントローラ「HC-2000」を発売しました。このシステムは、業界で初めてカードによる会員管理と貯玉の実現に成功し、遊技施設への再来店を促す画期的なシステムとして評価されました。
 マースの快進撃はとどまるところを知りません。この頃にはマースの景品管理システムが市場シェア45~50%に達し、特に玉数を表示する「磁気カード」は業界に大好評でした。高まる需要を背景に、平成5年3月に三島技術センターを竣工させて技術の集中移転を行い、その4ヵ月後の平成5年7月には全国8ヵ所で「NEW来店戦略M-NETフェア」を実施。翌年7月には情報処理の高速化と小型化に対応したホールコンピュータ「M-Ⅲ(MAGMA-Ⅲ)」を発売し、「トータルインテグレーションフェア」を再び全国で実施し、更なる評価をいただきました。
 次なる時代を見据えて開発にいそしんできたマースは、平成5年11月25日には念願の店頭公開を果たし、翌年には創業20周年、そして売上高100億円を突破することができました。


マース・ヒストリー

MARS HISTORY 8

ついに「初代パーソナル」登場!
しかし、業界に吹き荒れる逆風がマースに直撃。

平成7年は、マースにとってまさに破竹の勢いで波に乗った1年でした。7月には府中研修センター及び府中寮を、10月にはテクノ流通センターを、そして用地買収を順当に進めた翌年12月には新本社ビルも竣工させ、設備投資ラッシュに湧きました。こうした施設の充実に伴う資金調達も、平成8年1月に米ドル建ワラント債1億米ドルの社債を発行するに至り、同年9月には東証二部へ上場も果たすなど、すべてが順風満帆でした。
ところがこの頃、パチンコ店駐車場の車中に置き去りにされた幼児が熱射病で亡くなるなどの「パチンコのめり込み症候群」と呼ばれる社会問題が発生していました。事態を重く見た警察庁が対応に乗り出し、業界の自主規制で「社会的不適合機種」に指定された遊技台がホールから次々と撤去されていきます。これを契機に設備投資を控えるホールか続出し、当社が満を持して発売した「初代パーソナルシステム」は、市場の激変や時代を先取り過ぎたこともあり、不発に終わる事態となりました。
しかし、これで引き下がるマースではありません。平成9年4月には技術開発力の強化を目指して裾野技術センターを、新本社ビルにはパチンコホール「新宿ランドマーク店」をオープンさせます。このホールでは、発売したばかりの「パーソナルシステム」を、いかにホール経営に結び付けていけるかのノウハウの把握に大きな役目を果たすこととなります。また、経営の多角化で経営の安定を図ろうと考えていた当社は、米国、イスラエル及びハワイの外国企業へ出資して新規事業に乗り出しました。
こうした努力も、業界を取り巻く強く激しい逆風には散々でした。不適合機の撤去でホールの売上が大幅に減少した他、プリペイドカードの偽造が横行して被害が拡大し、マースを含めたパチンコ業界は一転、かつてない不況にさらされます。さらに、マースの販売代理店に依存する営業体質が業績悪化に拍車をかけ、営業力のなさが改めて浮き彫りとなりました。しかも、期待した新規事業は、先方の経営事情などもあって、すべて撤退・解消という結果に陥りました。
マースでは、これを機に、業績の立て直しはやはり本業勝負しかないと、今まで以上に新製品の開発に取り組んでいくことになりました。


マース・ヒストリー

MARS HISTORY 9

起死回生の思いでプリペイドカード(PC)事業へ参戦!

パチンコ業界の不況は底が見えず、マースでも営業所の統廃合や社員の待遇面の低下を余儀なくされました。当時のパチンコ業界では、大手商社や行政までを巻き込んだプリペイドカード(PC)システムが市場を席巻していましたが、本業回帰でこの状況を打開しようとしていたマースは、このPCシステムに対抗すべく「会員貸玉システム」を開発していました。このシステムは既設のCRサンド※に併設する「ダブルサンド方式」で、使い捨てのPCカードではなく、繰り返し使用できる「サイクルカード」を使って遊技が楽しめるように開発していました。
PC事業は独占的な市場と考えられていたのですが、遊技台メーカーが市場参入していることが判明し、マースも市場参入が可能なこともわかりました。技術的には当社の会員貸玉システムを応用して、サンドをCR台に接続すれば解決するので問題はありません。これが軌道に乗ればビジネスチャンスが大きく広がります。問題は、警察庁の外郭団体の保通 協(保安電子通信技術協会)において審査を受け合格できるかどうか、と各都道府県の公安委員会の承認を得て販売できるかにかかっていました。
審査はパチンコ台一対に対して行われるため、あらゆるパチンコ台メーカーに協力をお願いしたのですが、どこも自社の得にならないことを理由に断られることの連続でした。とうとう万策尽きたかと思った矢先、当時のアルゼ株式会社の社長を通じてご紹介いただいた株式会社メーシー販売にご協力いただけることになり、平成11年の5月には、ようやく当社の「MX-140K1」サンドがメーシー販売のCRピーカンA機と一対で保通協に申請することができました。
2000年(平成12年)はマースが設立して26年。四半世紀にわたる幾多の試練を乗り越えたミレニアムのこの年に、それまでマースの社長として会社を牽引してきた松波廣和を会長に、古宮重雄を新社長とする新体制がスタートを切ることになります。
新体制最初の大仕事の1つは、カードリーダーの開発・製造を依頼した株式会社ウインテックをマースグループの一員として迎えたことでした。高まる知名度と高い技術力を武器にPCサンド販売は好調を博し、過去最高の増収増益達成という華々しい業績を飾りました。

 

※ [CRサンド]=CR機に取り付けられたサンドのこと。

CR機とは、プリペイドカードに対応したパチンコ遊技機のことで、CRはCard Readerの略とされています。この遊技機との間に挟まれた細長い機械がサンドです。台と台に挟まれたサンドイッチのようであることから、サンドと呼ばれています。遊技客は、このCRサンドにプリペイドカードを挿入して遊技を楽しみます。

マース・ヒストリー

MARS HISTORY 10

IC力一ド&コインシステム、RFID※。
新たなステージヘ果敢なる挑戦。

2001年(平成13年)9月に、東京証券取引所市場第一部に株式の指定替えを行うことができました。
この期(28期)の連結売上高は214億円と、当時の売上目標を達成し、一部上場に華を添える結果となりました。
その原動力となったのが、マースの飽くなき挑戦する姿勢でした。業界内の動向に敏感になっていたマースは、遊技台メーカーが共同で株式会社ジョイコシステムズを設立し、ICコインが本格的に導入される動きをつかみます。この動きに急遽対応すべく、関係者を東富士工場に集め、3週間後にはコイン方式のCRサンドの開発に着手。前年にマースグループの仲間入りを果たした株式会社ウインテックの技術も結集し、見事なコラボレーションで独自のICコインシステムの開発に成功しました。
翌2002年(平成14年)開催された展示会では、数ある出展作品のうち、特にICコインシステム「RB-70紙幣識別機」に注目が集まったのです。この紙幣搬送の不要な世界最小の4金種対応機種は、その使い勝手の良さが高く評価され、業界の認知度も高まり、その結果、プリペイドシステム(ICカード&コインシステム)の導入店が1,000店舗を突破するまでに至りました。
こうした本業の好調さにとどまらす、新たな可能性を追求するマースの挑戦は続きます。本業の傍ら、マースでは長年培ってきた認証技術を他の産業へ応用すべく、RFIDの分野へも研究開発を続けてきました。一連の努力の成果が認められ、グループ会社の株式会社マーステクノサイエンスは、経済産業省から研究開発事業の委託を受け、アパレルRFIDシステムの推進委員会事務局に指名されました。これを機に自動認識展などへの出展を通じ、マースの新たな一面をアピールしていくことになります。
創業30周年を目前に、連結売上高300億円を達成したマースは、創業時からの飽くなきチャレンジ精神の勢いを止めることなく、新たな市場へも果敢に挑戦する道を選んでいったのです。

 

※ [RFID]=電波による個別認識(Radio Frequency Identification)」の略で、電波や電磁界を利用して近距離の無線通信を行う技術のことです。

マースでは本業であるパチンコ関連事業のプリペイドシステムにおいて、このRFIDの技術をすでに導入し、業界から高い評価を受けていました。 RFIDの技術を他の分野へ応用すべく、現在も更なる開発を続けています。

マース・ヒストリー

MARS HISTORY 11

ホール経営に革命をもたらす
新「パーソナルPCシステム」、ついにデビユー!

「企業30年説」。会社の創成から衰退まで、その寿命は30年しかないという大胆な試論です。しかし、マースにとって創業30年目は新たな飛躍へのスタートラインというべき節目の年になりました。
苦難の中の船出から長い歴史を刻んできたマースは、平成16年9月に30周年を迎えると、翌月には経営体制を一新。松波明宏現社長が代表取締役社長に就任します。若きリーダーの誕生に、社内の士気はいやが上にも高まりました。
この新体制の最初の課題の1つが、同年11月に発行された新紙幣の対応でした。各社の対応が遅れる中、マースはグループカを結集し、全国に拡がるマースのメンテナンス網によるきめ細かな対応と、グループ企業の(株)ウインテックの高度な紙幣識別技術を駆使して速やかに対応を完了させました。
市場からは高い評価をいただき、平成17年3月期の連結決算では、売上・利益ともに史上最高額を記録するに至りました。
順風満帆に見えたマースですが、その先には予期せぬ厳しい試練が待ちかまえていました。行政による相次ぐ規制の実施です。平成17年にはいわゆる「みなし機(期限切れの遊技機)」が、2年後には射幸性の高さが問題視されていたパチスロ4号機が撤去となりました。 平成18年には風適法の改正が行われ、度重なる規制はホール経営に重大な影響を及ぼしました。また、その影響からマースの事業環境は悪化し、業績も下降していきました。
こうした中、平成18年に社運をかけて送り出したのが、ホール経営を根底から変革し、のちに業界標準となる「パーソナルPCシステム」です。平成8年に一度初代「パーソナルシステム」を登場させましたが、このときはパチンコ業界の冷え込みもあり、市場に十分に浸透するには至りませんでした。
当時の教訓を活かしつつ、業界のトレンドや時代の趨勢を見据えたこの新しいパーソナルPCシステムは、入金・遊技・計数のすべてを座ったまま行うことができるもので、ホールの従業員を玉運びの重労働から解放し、お客様の利便性を格段に向上させました。現在市場を席巻している「パーソナルPCシステム」は、様々な苦難を乗り越えてきたマースの 営為の結晶であり、10年越しのリベンジマッチの成果だったのです。


マース・ヒストリー

MARS HISTORY 12

事業の規模と分野を拡大し、
さらなる可能性ヘ向けて挑戦! !

平成18年にマースが満を持して世に送り出した新「パーソナルPCシステム」は業界に一大センセーションを巻き起こしました。ホール経営者、ホールの従業員、お客様の誰もが Win-Winの恩恵にあずかれる革新的な仕組みを兼ね備えていたからです。しかし、当初導入した店舗数はなかなか思うように伸びませんでした。これは「PERSONAL Ⅰ」に大掛かりな島工事が必要であったことと、業界内に「玉積みを必要としないホール」への根強い違和感があったからでした。
「なんとしてでも、パーソナルを業界へ浸透させる」。この強い思いのもとに、マースはグループの力を総結集し、営業活動ときめの細かいサービスを展開し、粘り強く業界へ働きかけていきます。また一方で、2年後の平成20年には島工事が不要な「PERSONAL Ⅱ」「PERSONAL Ⅲ」を相次いでリリース。更に、空気の力で紙幣を運ぶ世界初の技術を駆使した「Air紙幣搬送システム」も発売しました。
マースの提案したこの新しい遊技スタイルは、瞬く間に遊技客の間にも認識が広まり、 パーソナルPCシステムの導入店舗数は飛躍的に増え、業界標準へ着々と地歩を固めていったのです。
しかし、マースはこの快進撃と同時進行で、全く別の戦略を進めていました。パチンコ 関連製品・サービスのノウハウを活用して、電波により固体識別を行うRFIDの分野でも健康診断支援システム「検診ステーション」をリリースするなど、新たな事業の柱の確立に 向けて動いていたのです。更に、平成19年の漢字情報処理システムを手掛ける昭和情報機 器株式会社、平成21年の自動認識システムに強みを持つ株式会社東研との業務及び資本提携によって、経営基盤の安定化と業容の拡大を図りました。こうした果敢な取り組みが奏功し、売上高・利益ともに順調に推移。世界金融危機もマースの歩みを止めることはできませんでした。
昭和49年、4人の男たちが知恵と技術を持ち寄って誕生したマースは、幾多の試練を経ながらも常に「開発者魂」を忘れることなく前進を続けてきました。そして、いまやアミューズメント業界で、そして自動認識の世界でマースの名は確かなブランドとなってその存在感を際立たせています。しかし、マースの物語はこれで終わったわけではありません。卓越した技術力で人々の暮らしに貢献するために、次なる可能性に向かって新たな歴史を刻み始めています。

マースの挑戦はまだ始まったばかりです。